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人生朝露

人生朝露

兼好法師と荘子 その3。

荘子です。
荘子です。

『徒然草』における老荘思想についてやっています。

兼好法師((1283~1352)。
『つれづれなるまゝに、日暮らし、硯(すずり)に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)ほしけれ。(『徒然草』序段)』
→何をするでもなく、終日硯に向かって、浮かんでは消えていくとりとめもない事柄を書き連ねているのは、何とも怪しく、もの狂おしいものである。

有名な序段から始まる『徒然草』ですが、もともと構造的にも『荘子』と一致する部分があります。

荘子 Zhuangzi。
『寓言十九、重言十七、卮言日出、和以天倪。寓言十九、藉外論之。親父不為其子媒。親父譽之、不若非其父者也。非吾罪也、人之罪也。與己同則應、不與己同則反、同於己為是之、異於己為非之。重言十七、所以已言也、是為耆艾。年先矣、而無經緯本末以期年耆者、是非先也。人而無以先人、無人道也。人而無人道、是之謂陳人。卮言日出、和以天倪、因以曼衍、所以窮年。不言則齊、齊與言不齊、言與齊不齊也、故曰無言。』(「荘子」寓言第二十七)
→私が語っているのは、寓言(作り話)が十のうち九。重言(有名人の言葉)を用いるのが十のうち七だ。無心のうちに日々こぼれ出た卮言は、人の是非の判断とは相容れない天との有様を図るためのものだ。十のうち九を占める寓言というのは、他の事柄によって「道(Tao)」を論じるために使った。自分の息子の媒酌人に、親がなってしまうよりも、他人に自分の息子を褒めてもらう方がいいのと同じようなことだ。寓言をあえて使っているのは、私の罪ではない。読み手である人の罪だ。人間は、自分と同じ立場にいる人の意見に従い、違う立場にいる人間の意見に耳を貸そうとしない。自分の考えに間違いはないと信じ込み、自分と違う考えは間違いだと決め込みがちだ。十のうち七を占める重言というのは、是非にとらわれた無駄な議論を止めさせるためで、同時に先人に敬意を表するためだ。ただし、年長であるというだけで、道理を弁えないような者に対しての敬意ではない。人の道を踏み外して年長面(づら)しているのは、ただ古いだけの陳腐なガラクタにすぎない。日々口をついて出てくる卮言は、天の有様と調和し、しがらみのない世界に身をおいて、命を全うするためのものだ。「同じものだ」、「違うものだ」という言葉にとらわれた論争そのものが、天のもたらす有様とかけ離れていく。だから、かつての至人といわれる人は、是非を決めずに無言によって答えたといわれる。

・・・紀元前の書物であり、多くの寓話を収録している『荘子』ですが、「この物語の九割はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。」と、ご丁寧に但し書きまでしてあります(笑)。少なくとも、有名人の言葉に仮託する「重言」と、日々口をついて出てくる「卮言(しげん)」というのは、『徒然草』の中では、多く活用されています。思想以前に、論理の組み立て方に『荘子』との一致が見られます。

兼好法師((1283~1352)。
『世の人相逢ふ時、しばらくも默止することなし。必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。
 これを語る時、互の心に無益のことなりといふことを知らず。(『徒然草』第百六十四段)』

兼好法師((1283~1352)。
『世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
 あるにも過ぎて、人はものをいひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、言いたき侭に語りなして、筆にも書き留めぬれば、やがて定りぬ。道々のものの上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに神の如くにいへども、道知れる人は更に信も起さず。音にきくと見る時とは、何事も變るものなり。
 かつ顯(あら)はるゝも顧みず、口に任せていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠しからずは思ひながら、人のいひしままに、鼻の程をごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、能く知らぬよしして、さりながら、つまづま合せて語る虚言は、恐ろしき事なり。わがため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず、皆人の興ずる虚言は、一人「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて、聞き居たる程に、證人にさへなされて、いとゞ定りぬべし。
 とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍らしからぬ事のままに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。(『徒然草』第七十三段)』
→世の中で語り継がれている事は、誠実なものは好まれないのか、多くは嘘偽りである。
 事実についてすら、人間はわざとらしく飾り立ててしゃべるものだ。ましてや、年月が過ぎ、距離も遠ければ言いたい放題になって、それがいつのまにか定説とされてしまう。その道の達人の優れた話なども、偏った連中が素人考えでまるで神のように扱っていて、道を弁えた人は、信じよという気にもならない。何事も音に聞くのと目の当たりにするとでは、違うものだ。
(中略)
 とにもかくにも、嘘の多い世の中だ。珍しいことだともせずに受けとれば、万事間違いはないだろう。下卑た人の話は、人を驚かそうとするばかりだ。立派な人は怪しいことを語ったりはしないものだ。
 そうはいっても、仏や神の霊験や、菩薩の転生した人物の物語については、信じるべきではないといえるものでもない。俗世間の嘘いつわりを本心から信じてしまうのもくだらないが、御仏の説話を「そんなことはないだろう」といってもどうしようもない。おおよそ事実なんだろうと受け止めておいて、無闇に事実だと信じ込んだり、相手を疑って嘲るような真似はしない方がよい。

・・・「人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。」とする『徒然草』でこの第七十三段で連想しやすいもの。例えば「よき人は怪しき事を語らず。 」などというのは『論語』でしょう。「かたくななる人・下ざまの人」が小人で、「よき人」が君子という対比。

Confucius /Kongzi(孔子・551?479 BC)。
「子不語怪力亂神。」(『論語』 述而第七)
→孔子は怪異、暴力、變亂、鬼神について語られることはなかった。

「樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。」(『論語』雍也第六)
→樊遅は知について質問した。孔子はこうおっしゃった。「民の義に務め、鬼神を敬いながらも遠ざける、これを知という」。ついで、仁について問うと、孔子はこうおっしゃった。「仁者はまず難事を先にし、後に報酬を得る。これを仁という」。

「子曰、巧言令色、鮮矣仁。」(『論語』学而第一)
→孔子はこうおっしゃった。「巧みな言葉や、わざとらしい仕草に、仁は少ないものだ。」

・・・『荘子』を読むとまた違う趣があります。
 
荘子 Zhuangzi。
『丘請復以所聞。凡交、近則必相靡以信、遠則必忠之以言、言必或傳之。夫傳兩喜兩怒之言、天下之難者也。夫兩喜必多溢美之言、兩怒必多溢惡之言。凡溢之類妄、妄則其信之也莫、莫則傳言者殃。故法言曰「傳其常情、無傳其溢言、則幾乎全。」且以巧鬥力者、始乎陽、常卒乎陰、大至則多奇巧。以禮飲酒者、始乎治、常卒乎亂、大至則多奇樂。凡事亦然。始乎諒、常卒乎鄙。其作始也簡、其將畢也必巨。夫言者、風波也。行者、實喪也。風波易以動、實喪易以危。故忿設無由、巧言偏辭。(『荘子』人間世 第四)』
→『わたくしが聞いたことのあるお話で振り返らせていただしますと、おおよそ人間同士の関係は、近い相手には、密接な信頼関係を築くことにより、遠い相手には、言葉によって相手に伝えようとするものです。この場合、ある事柄について、自他共に喜んだり、怒ったりできる言葉を伝えるのは天下の難事であります。双方を喜ばせようとすると、飾り立てるような言葉があふれ、双方を喜ばせようとすると、誹るような言葉があふれてしまうものです。あふれ出た言葉は妄想の類で、真実味は薄れ、使者は災いの元凶となります。故に、古来より「普通のことを伝えて、言葉で事実を飾り立てない。それができれば使者として真っ当である。」としています。人が技巧を競う場合、陽に始まりながら、陰に終わるものです。ついには、奇をてらった巧みさのみが幅をきかせることとなります。礼によって開かれたお酒の席でも、初めは穏やかであったのに、最後には乱れて終わるものです。ついには、奇妙な趣向がもてはやされるようになります。これは万事あてはまることで、始まりは整然としていながら、常に雑然とした終わりとなるのです。単純な動機によって始まっていながら、終末には意図することよりも大きな結果が生じるのです。言葉というのは波風のようなものであり、行為とは本質を失ったものです。波風は変動しやすく、本質を失った行動は危うさに変わりやすいのです。他人の怒りを買うのは、およそ飾り立てた言葉による食い違いによって生ずるものです。

『荘子』のこの部分というのは、現代で言うと、情報理論におけるエントロピーの研究に近い発想です。

参照:Wikipedia エントロピー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC

兼好法師((1283~1352)。
「よき人は怪しき事を語らず。」と言っておきながら、『徒然草』には、猫又や鬼や狐の話があります。おおよそ理性的な対処をしているものの(大根の化身は別として(笑))、やはり「怪力乱神を語らず」という態度で書かれた随筆とは言えません。これも、大変荘子的な態度だと思います。

荘子 Zhuangzi。
『予嘗為女妄言之、女以妄聽之』(『荘子』斉物論 第二)
→「試しに私が妄言を吐いてみよう。あなたもそのつもりで妄聴してほしい。」

参照:怪を綴るひとびと。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5107/

また続きます。
今日はこの辺で。


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